思い出
先日、最愛の祖母が天国へと旅立ちました。
母方の祖母ですが、幼い頃は母方の実家によく遊びに行っていたので私はおじいちゃんおばあちゃん子でした。
田舎ですが、家の周辺には沢山緑もあり、閑静な住宅地でいつも穏やかな気に包まれていました。
家は年季が入っていましたが風情もあって敷地も広く、庭もあって家庭菜園もありました。
夕方になると祖父と祖母はお散歩するのが日課で、遊びに行く時はいつも私も一緒について行っていました。子供ながらに歩く距離が長過ぎて疲れたのを覚えています。田んぼ道をいくつも通り過ぎ、その先の林の中に小さな祠があり、そこにお参りをしてまた来た道を戻るというのがお決まりのコースでした。距離でいうと余裕で10キロ近くはあったと思います。それを雨の日以外は毎日行っていました。
その時にいつもどこからともなく決まって現れる秋田犬の野良犬がいました。祖父母たちはシロと呼んでいて、名前を呼ぶとひょっこり表れてしばらくは道の途中までついてくるような、ころっと太った愛嬌のある子でした。
その子もいつの間にか呼んでも現れなくなってしまったそうです。
最愛の祖父は私が宝塚の公演中に亡くなりました。すぐにでも祖父に会いにいきたかったのですが、公演がある為お葬式にも参加できず、悲しみを堪えながら公演を無事に乗り切ることだけに集中しました。
立て続けに父方の祖父も亡くなり、その公演中は精神的にかなりきつかったのを覚えています。
悲しみよりも感謝を感じた瞬間
祖母は大分前から痴呆になり、寝たきりになってしまい自力でご飯を食べたりしゃべることも出来なくなってしまっていましたが、定期的に顔を見にいき結婚の報告もすることが出来ました。
90歳をとっくに過ぎ、元々喘息持ちの小柄でかなり細身の祖母でしたが祖父が亡くなってからも10年以上も長生きしてくれました。どこかで私が結婚するのを待っていてくれていたのかなと思うほどでした。
火葬場まで行き、遺骨をみて係の方が骨がとてもしっかりしていると見てびっくりされていました。昔から運動をしている人は骨も丈夫でしっかりしているのだそうです。そんな時に祖父母の散歩している姿が一瞬にして思い出されて、懐かしさと寂しさと共に素敵な思い出が思い出され、感謝の気持ちでいっぱいになりました。
コロナもありなかなか友人にも会いづらい状況ではありますが、このようなタイミングで親戚が集まり久しぶりに会ってお互いの顔を見ながら近況報告なども出来て、こういう風に集まる機会を祖母は設けてくれたのかなと思いました。
祖父母が出会って結婚して子供を産んで、今自分を含めて目の前にいる人たちがこうして今を生きているのだなとしみじみと思いました。
生きた証
最後まで仲良く散歩するような祖父母が大好きでした。「ご先祖様に感謝しなさい」とはよく言いますが、それを更に実感した瞬間でもありました。
人が最期に残してくれるものでいつまでも残り続けるものというのはこうした思い出や学びなのだなと思いましたし、それがその人の生きた証になるのだなと思います。
そんな私と夫の日課の1つが散歩です。特にどちらかが言い出した訳ではありませんが、いつの間にか自然と日課となっています。そしてそんな夫の姿を親戚たちが初めて見た時に、皆口を揃えて「亡くなった母方の祖父に似ている」と言うのです。もちろん夫と祖父は親戚でもありませんし、血のつながりは全くありません。どちらも私の潜在意識の中に仲の良かった祖父母の姿が刷り込まれていたからだと思います。
とても不思議なことですが、祖父母たちの生きた証を色んなところで感じます。
祖父母たちから言葉で何かを言い残された訳ではありませんが『こうやって生き様や思い出によって生きた証として後世に残されていく』これこそが人間が生きることで生まれる素晴らしさだなと思います。
最愛の祖母とのお別れが悲しみよりも感謝の気持ちの方が大きかったのも、そんな素晴らしいものを残してくれたからかもしれません。
生きている中で色んなことがあります。それでも希望を捨てずに生きることで必ず素晴らしい人生になり、素晴らしい生きた証を残していけるのだと思います。
今どんなに苦しいことがあっても必ず人は乗り越えることが出来ます。その経験があなたの力となり、あなたが希望を捨てなければ必ず幸せな未来がやってきます。そうやって磨かれて生きることで、とても素晴らしい生きた証を残していけるのです。
物事に悲観したり自暴自棄になっても生きることを諦めないでください。
今目の前に起きていることを「あなたの人生をより素晴らしいものにするものだ」と信頼し、あなたの力にしていってください。
生きることは素晴らしいですし、素晴らしいものを生むことでもあるのですから。
風羽 玲亜
コメント